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徐福について

前回の記事でチラッと紹介した徐福は方士です。方士とは呪術師や祈祷師,薬剤師であり,占星術・天文学にも秀でた学者のことです。

不老不死の秘薬を探していた秦始皇帝に、東方に不老不死の霊薬があることを伝え自ら渡航を申し出ました。
仙神思想を信じていた秦始皇帝の命を受けた徐福は、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(技術者)を従え、そして大量の食料と五穀の種と共に日本に向かったそうです。

徐福は稲など五穀の種子と金銀、農耕機具や関連技術をはじめ、鉄器、織機、薬草、造船などの技術を伝えて、その当時の日本の発展の大きな礎を築いてこの地で亡くなったと言われています。
徐福の占星術によって導き出した「国の行末や滅亡」を先に予見したのかもしれませんが、結果始皇帝を裏切って秦には帰らず日本で安住ました。一説には秦に滅ぼされた斉国出身の徐福が、同様の若者を連れた「壮大な移住プロジェクト」だったとの話もあります。

安住の地が富士山の付近であったと定かではないですし、その時も(一応?)秦始皇帝の命を追行して富士山まで向かったのかは良くわかりませんが、徐福はこの付近で亡くなったということです。
山梨県富士吉田市を含む富士山の北麓は千年以上前から織物が盛んだったそうで、これは徐福の技術だとも言われています。また富士吉田市には徐福に関連する史跡が多く残っています。

徐福の活動範囲は九州から日本に入り、四国、関西、関東、さらには東北まで及び、「徐福伝説」として各地で神社のご祭神や徐福像が祀られていています。この徐福伝説が本当であれば、私たちの日本人のルーツは徐福の要素が混ざっていることは間違いなさそうです。

徐福は九州の佐賀県が起点となって日本で活動を行ったとされていますが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡から発見された絹や人骨などが中国と深く関わっていることもわかってきて徐福との関係が注目されています。吉野ケ里遺跡から16km程離れた場所に筑後国一宮の高良大社があります。この高良大社は現在でも吉野ヶ里遺跡付近に住む人々の信仰対象となっているそうで、徐福と吉野ヶ里遺跡とを結びつける一説とされています。(主祭神の高良玉垂命は所在の分からない神様で、徐福ではないかと言われています)

吉野ケ里遺跡

今まであんまり徐福を主として神社や遺跡に行くことがありませんでしたが、秦氏や物部氏、そして日本の神話にも関わる部分があるので、今後機会があれば色々と回ってみたいと思います。

 

今回の撮影場所ー吉野ケ里遺跡・佐賀

佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843

 

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